不惑にして惑う男の日記

四十にして惑う男が書く様々なネタ

フリーランス=「個人事業主」と言う理解でよいのか?

カレンダーは変わってもう9月。

9月を境に、朝晩とも「秋風」状態だ。

時の移り変わりを身近なところで知った次第である。

フリーランス個人事業主の違いを知っておこう

さて、俺が志す「フリーランス」は会社員ではない自由業の人に対して

使われる言葉だ。同じく「個人事業主」も自由業について使われる言葉である。

では、「フリーランス」と「個人事業主」はどう異なるのだろうか?

 

フリーランスって何?

フリーランスとは、企業や団体などと雇用関係がなく、独立して仕事を請け負う人を指す。もっと詳細に説明すると、

対するフリーランス単発で契約を結ぶ形態。実際には1回1回契約を交わすのではなく、一度に長期間の契約を結び、その中で案件ごとの発注書を受け取って業務を開始するケースが一般的。守秘義務契約の締結を結ぶこともある。

つまり、フリーランスとは働き方・契約の仕方を指し、IT系のプログラマーWEBデザイナーをはじめ、ライターや翻訳家などクリエイティブな仕事中心にみられる働き方をいう。しかし、具体的にどの職業が当てはまるという明確な取り決めはない。

現在、社会でも広く多様な働き方が認められてきており、多くの人が自分にあった働き方を探すこと・求めることが可能になりつつある。単発で契約を交わすフリーランスは、そのような働き方に適しているため、主婦学生シニアの方からも注目を集めている。

個人事業主って何?

個人事業主とは税務上の所得区分で、株式会社や合同会社などの法人を設立せず、個人で事業を営んでいる人を指す。法人を設立している場合には売上を法人の事業所得として申告するが、個人事業主では個人の事業所得としての申告となる。

つまり簡単に言えば、フリーランスのうち、法人を設立している人以外は基本的に個人事業主となる。個人事業主として事業を始め、売上の増加に伴って法人を設立する人もいる。

「会社勤めですか」と聞かれたとき、あるいは「法人でやっていますか、個人でやっていますか」と問われたときに、「個人事業主」と答えるシーンが考えられるだろう。

 

個人事業主に必要な手続きとは

個人事業主として働く場合には、税務署に「開業届」を提出。

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このとき、「所得税青色申告承認申請書」を提出しておくと、青色申告を行うことができるので、税務上有利。提出期限は開業年の3月15日まで、あるいは開業から2カ月以内と言う制約があり、期限を過ぎるとその年の確定申告は、青色申告はできなくなりますので注意すべし。

個人事業主の確定申告には、青色申告と白色申告がある。白色申告でも記帳が義務化されましたが、単式簿記ですので帳簿つけは比較的簡単

これに対して、青色申告では原則として複式簿記で記帳を行うことが義務。しかし、青色申告では赤字を繰り越せる、家族へ支払った給与は要件を満たせば全額所得税などの控除となる、65万円の特別控除といったメリットがある。

 

フリーランス個人事業主の使い分け

と言う違いがあり、フリーランスといわれる人のうち、個人事業主でもある人は多く存在する。しかし、絶対にフリーランス個人事業主」というわけではない。また、個人事業主の中には、ネット物販を手掛けている人もいますが、こうした人はフリーランスとは一般的には呼ばれない。

 フリーランスの方、個人事業主の方、このような形態で既にお仕事を始められている方はたくさん存在する。SNSなどを使って、「フリーランス」「個人事業主」で検索すると、その違いをよりイメージすることが可能。SNSを活用してお互いのつながりを作っていけば、より違いが明確になるだろう。

 

 

 

退職に向けて俺は孤独な戦いを覚悟した

前回の続きから。

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「退職する気持ちは揺るぎはなかった」とは書いたものの、これを実行

に移すにはなかなかめんどいのだ。

精神衛生上、極めてよろしくないのである。

上司への退職意思表示のタイミングがめんどい

第一、退職する場合の意思表示のタイミングを熟慮せねばならない。

今後、変な部署(失礼な書き方だな)に配属されて、訳の分からないややこしい

プロジェクトに組み込まれた場合、動きが取れない。

それなら、退職の意思表示は早いほうがいいのか。

それが決してそうではないのだな。

例えば俺が「来年3月末をもって退職したい」と上司に今打ち明けたとしよう。

おそらく、上司は「時間はまだあるから結論を急ぐな」と言うはずだ。

また、「辞めた後の身の振り方は?転職の当てがあるのか?」とも尋ねるだろう。

まあ、職務規定では、確か「退職日の1か月前までに」とあったはずだから、2か月前ま

で黙っていてやるか。

それまで、じっくりと計画を練るとしよう。

 

「退職」だなんて親や親戚にも言えない

親や親戚にも「退職することにした」とは口が裂けても言えない。

そこそこ安定した給料を放り出すなんて、傍から見れば正気の沙汰ではないし。

聞こえが悪いもんな。

だいたい、説明がしづらい。

「心機一転」という大義名分はあるのだが、どうしても「収入を捨てる」ということで

説教を食らいかねない。

まあ、俺の人生だから、俺が確固たる食い扶持を確保すれば何とでもなるのだが。

「給料分」に相当する食い扶持の確保見通しがまだ立っていないため、反論材料がない

のだな。

うーん、ということは当分は俺の胸にしまっておかねばならんようだ。

軍の機密事項だ。

精神衛生上、非常によろしくない状態だ。

まあ、俺だって、ボーナスがもらえるもんならもらいたいし。

もらえるものはもらってから、ちゃっかりとおさらばしたいという卑しい本音も

心の底にあるのは間違いない。

俺の食い扶持確保プロジェクトが始動した

それにしても、誰にも退職について相談できないというのはつらいな。

当面は、成就するかどうか分からない「円満退職」に向けて俺の孤独な戦いを覚悟

しなければならぬ。

そして、俺の食い扶持確保プロジェクトも静かに始動し始めている。

俺の目指すは「フリーランスのWebライター」だ。

もう転職はすでにあきらめている。

俺が食っていくに足るだけの仕事が取れるか、そして、食えるだけの仕事量がこなせる

か。

それは神様だけが知っている。

 

退職を決めた日

前回の続きから。

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前回、「ある結論」に達したと書いた。

それは「退職」である。

漢字で書くと2文字だが、俺の人生を決めかねない重要なポイントだ。

だが、俺の心はもはやこの2文字に傾いている。

何故、「退職」という人様から見れば無謀な結論に行き着いたのか。

このたわごとめいたブログを読んでくださる方のために、支離滅裂ではあるが

説明しておくのが礼儀だろう。

周囲に要らぬ気遣いをさせるのが忍びない

俺のことを周囲はもっと寛容に見てくれている(と信じたい)。

しかし、どんなに周囲の温かい配慮があろうとも、それは要らぬ神経を遣わせているに

過ぎないというのが俺の考えだ。

周囲は無理やり俺の居場所を作ってくれている、と感じられて仕方なかった。

ということは、本来は俺の居場所はないのだ。

ならば、そういう要らぬ気遣いをさせるような奴は職場から消えるべきだと思った。

性急な結論だ。

我ながらそう思った。

しかし、俺からしてみれば、周囲の俺に接する態度がぎこちなく映った。

これは正直辛い。

復職後も、周囲の態度が俺には辛くて、毎日がある意味針のむしろだった。

考えすぎなのかもしれない。

しかし、俺は人様に「気遣い」という負担を背負わせるのが忍びないのだ。

というのが、「退職」を決断した第一の理由だった。

もっとも、俺の上司なら「そんなことを気に病む必要はない」と諭すだろうが。

心機一転したかった

第二の理由は、「心機一転」だ。

やはり、職場の人間関係が多少は響いている。

事情は詳しく書けないが、ある大規模なプロジェクトのため、職場全体が余裕がなくな

ってしまっている。

人間関係もどこかギスギスしている。

俺もギスギスしていたが、職場全体がどこかそんな雰囲気に毒されているようだ。

これはイカンと思った。

ならば、この状況から脱せねばならないと感じた。

給料は何とか食べていけるほどはもらっている。

だが、給料のために、意に染まぬ命令を受けることを俺はよしとはしない。

そういう人間を「ワガママ」というのだろう。

しかし、俺は気持ちをリセットしたかった。

給料を放り出してどうやって食べていくのか

しかし、「心機一転」のためとはいえ、その給料を放り出せるのか。

給料をもらっている人間なら、当然ぶち当たる壁だ。

退職したなら、当然ながら給料はなくなる。

どうやって食べていくのか。これは、相当難しい問題だ。

方法はいくつかある。

一つは「転職」だ。

しかし、これは俺のような不惑後半の人間にはハードルが高くなる。

もちろん、職種を問わなければ、それ相応の口はあるだろう。

それでも、当然今より給料が低くなることは覚悟しなければならない。

また、運よく転職できたにしても、新しい就職先で人間関係になじめるのか。

俺のような「うつ病」の人間となると、門がかなり狭くなるだろう。

門どころか、「針の孔」かも知れない。

ならば、俺の考えるもう一つの手段が「個人事業主」、言い換えると「フリーランス

だ。

これなら、人に雇われて人間関係にきゅうきゅうとしなくても済む。

しかし、これもそれなりにハードルは高い。

保険や税金の扱いがどうなるか、さらに稼がなくては話にならない。

今考えているのが、ブログ記事のライターとして独立するというものだ。

理解のあるクライアントと運よく契約できたとして、食っていけるだけの執筆ボリュー

ムをこなせるか、非常に疑問だ。

今書いているブログは、実はライター修業の一環で始めたものだ。

ただ、ネットユーザーが見たくなるような文章かというと、自信はない。

俺が「退職」するとして、次はWebでのライターで食べていくというところまで

ははっきりしているが、その対策がいまいちヤバイ。

というわけで、「退職」して、フリーランスで独立して食っていけるまでには

相当な事前準備が要りそうだと悟った。

しかし、なぜか俺の気持ちに揺るぎはなかった。

 

   (続く)

 

うつ病で休職し、復職したものの・・・・

俺はそこそこの給料をもらっているサラリーマンだ。

年齢的には不惑後半に差し掛かり、管理職にいてもおかしくない。

しかし、ある病気がもとで、出世コースから脱落した。

俺はうつ病

いわゆる「うつ病」というやつだ。

心療内科にも月1~2回ベースで通っている。

もともと、俺は「生真面目」で「不器用」というのが周囲からの評価だ。

それゆえ、管理職にはもともと不適格だったのだろう。

心療内科では「睡眠導入剤」、「気分を落ち着かせる薬」を何種類か処方して

もらっている。

そんな有様だから、任される仕事も今や軽作業レベルだ。

責任や負担はなくなったが、その代償として出世コースからは外れた。

そして、職場の同僚とも会話が激減した。

俺の病状をうすうす知って気を遣ってくれているんだろうが、俺にはその態度が冷淡に

映った。

その結果、周囲とはわだかまりが残った。

俺の態度はギスギスしていった。

適応障害で4か月休職した

そして、1年前にある会社に出向になったが、健康を崩して出向を解かれた。

心療内科の診断書によると、「適応障害」だった。

そして、5月から4か月休職した。

人事部の配慮で有給休暇と夏期休暇を利用したが、不足日数が出たため

その不足分は「欠勤」となった。

労務規定で決まっており当然のことだが、なぜか「欠勤」の2文字が悔しかった。

休んでいる間、何もすることがなかった。

これと言って趣味がないから、何をしていいか分からなかった。

毎日、ダラダラと寝ていた。

復職はしたものの

9月から職場復帰し、ある部署でリハビリで軽作業にあたることになった。

10月には通っている心療内科の診断書で、「復職」のお許しが出た。

しかし、リハビリはそのまま継続。

結局、今年の3月末まで軽作業にあたっていた。

復職と言いながら、7か月リハビリしていたわけだ。

ただ、席を与えられるわけでもなく、周囲はよそよそしかった。

そのため、当然ながら俺はギスギスしていた。

当初は、復職できたことが嬉しかったが、周囲と打ち解けない日々にイライラが

募った。

軽作業のみという一見気軽な状況だったが、人間関係の摩擦も結構あった。

それゆえ、人事部からは「もっと協調性を持て」と説教を食らったこともあった。

しかし、「協調性で腹は満たされるわけない」というのが俺の信条だ。

まあ、表面上はおとなしく従ってはいたが。

結局は・・・

今年4月、リハビリが解けて正式に配属になった。

しかし、3か月で「〇〇部付け」と異動になった。

原因は、配属先の事務作業の負担に耐えられなかったためだ。

俺のダメさ加減が露呈したとも思えるが、4月に配属された部署の事務が息つく暇が

なかった。

不手際も結構やらかして、営業担当の年下の後輩からも結構怒られた。

悔しかった。

俺のダメさは認めるとして、口の利き方に腹が立ち、ストレスが倍増した。

「先輩に対してコイツら、こんな口たたくのか」とキレたくなった。

実際、書類をたたきつけるなど何度もイライラした。

それが影響して、産業医の診断を受けることになった。

その結果、産業医から休養を取るように診断を受けた。

その診断書を人事部に提出し、異動になることはうすうす察していたが、もうこれで

俺のキャリアに先がないと感じた。

そして、今はあるプロジェクトで雑用にこき使われている身だ。

「お前のことには十分配慮している」と新しい上司に言われたものの、口先だけだと

しか思えなかった。

俺は考えた末、「ある結論」に達した。

(続く)

門田博光・不惑の大砲(その4) ライバルとの熱い対決

久しぶりに不惑の大砲門田博光を取り上げることした。

やはり、球界きっての強打者について、もっと書きたくなった。

門田博光と言えば、パ・リーグである。

この頃のパ・リーグは、人呼んで「実力のパ」。

「人気のセ」セ・リーグへの対抗意識丸出しである。

人気はセ・リーグには及ばないが、実力では負けるわけないという強烈なプライドがにじみ出ている。

その気概に燃える役者たちがそろっていた。

ピッチャーだけでも、サブマリンエース・山田久志(阪急)、ケンカ投法・東尾修西鉄-太平洋-クラウンライターー西武)、草魂・鈴木啓示近鉄)、マサカリ投法村田兆治(ロッテ)とサムライ揃いだ。

今見てもシビれるような顔ぶればかりだ。

サブマリン・山田久志

我らが門田博光の一番のライバルが山田久志だ。こざかしい駆け引きは抜きで、インハイとアウトローの直球のみで勝負というシンプルなスタイル。その結果、山田久志は、門田博光から28本被弾する結果になっている。しかし、「本物のプロのバッターだった。真っすぐを狙っているところに、真っすぐを投げた。インハイとアウトローにすべて直球を投げていい勝負だった」と山田自身が語るようにお互いに悔いはなかった。

こんなことがあった。山田久志の現役最終年(すなわち、門田博光不惑の大砲として打ちまくった昭和63年)、対戦した2人だったが、山田久志はあっけなくノックアウト。その姿に何事か感じた門田博光は、翌日早朝に山田宅へ電話をかける。

(山田)「なんや、カド(門田)か。こんな朝早く電話なんて」

(門田)「ヤマちゃん(山田)、まさかやめるつもりやないやろうな」

(山田)「こんなぶざまな格好のままやめられるもんか」

(門田)「ヤマちゃん、ホンマやろな。信じてええんやな」

(山田)「当たり前や。カドにもお返しせんとアカンからな」

という会話だったらしい。要は、山田の雰囲気から「引退」を感じ取った門田が電話で真意を問いただしたというわけだ。

しかし、強がって見せたサブマリンエースも、内心では現役引退を決めていたのだった。

こういうライバル同士の会話ができるのも、うらやましい限りだと思う。

ケンカ投法・東尾修

東尾修は、危ない球をバッターの内角すれすれに投げ、外角球の絶妙なコントロールで打者をかわしていくのが持ち味だった。

とある試合の第1打席で、その危ない球が門田に当たった。そのお返しに、ピッチャー返しを東尾の太ももにお見舞いしたという。

(門田)「トンビ(東尾)、大丈夫か」

(東尾)「カドさん何を言うてますか。バットは全部僕の方に向いてますやん」

(門田)「やっぱりわかっとったか」

(東尾)「当然わかっていましたよ」

(門田)「お前、1打席目にオレに当てたやないか。これでおあいこや」

(東尾)「そうですね」

以後、東尾は一切そのような投球を門田にしてこなくなった。

なお、落合博満も同様の話が語り伝えられている。

マサカリ・村田兆治

村田兆治は門田から生涯14本被弾している。その中の1本がどうしても忘れられないのだという。「マサカリが完成してすぐのころ、絶対に打たれるはずのないひざ元へのスライダーを門田さんに打たれてサヨナラホームランを喫した。失投ではなくて、完ぺきな球をホームランにするバッター。あれから、門田さんにスライダーを投げたことはない」

それからの村田兆治は、スライダーを封印してストレートの威力を高めるべく精進に励んだ。それを伝え聞いた門田もストレートの球威に負けないよう、鉄球を打つトレーニングに励み、村田はさらにストレートに磨きをかけるよう鍛錬を続けたという。

鉄球を打つというあたりで、「花形満か!」とツッコミを入れたくなった。まあ、門田の場合、鉄のボールを打って、村田の球威に押されないという独自トレーニングだろう。投げるほうも投げるほうだが、打つほうも打つほうだ。さすがサムライだ

中島春雄・世界も絶賛するゴジラ役者が去った

前回の記事で、『ゴジラ』第1作を取り上げた。

 

時期が時期だけに、反戦映画として鑑賞したことを書いたのだ。

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なぜ、ゴジラ』第1作(以下『ゴジラ』の表記で統一)を取り上げたのか?

前回の記事に書いたように、反戦への思いに突き動かされたという側面も強かった。

しかし、更に書きたかったのが『ゴジラ』の真の主役である中の人のことだ。

中島春雄スーツアクターの草分けたる人物である。

スーツアクターとしては、『ウルトラマン』の古谷敏、『仮面ライダー』の大野剣友会(中村文弥、中屋敷鉄也、岡田勝ら)が著名な存在だ。

そして、『ゴジラ』は今回取り上げる中島春雄に尽きる。

スーツの中で想像を絶する暑さと苦しみに耐え、ほんのささいな動きで最大限のパフォーマンスを演じてくれる存在だ。彼らの存在なくして、これら偉大な作品はあり得なかった。歴史の証言者と言ってもよいだろう。

その歴史の証言者の一人たる中島春雄が、帰らぬ人となった。

ゴジラ役者として世界からも絶賛された彼の死去は、世界メディアでも大きく報じられている。

スーツアクターなる言葉が存在しなかった時代に、文字通り体を張って「こんな仕事があるんだ」と知らしめた功績は計り知れない重みを持つ。

先駆者たる彼の奮闘を語らずして、後のゴジラシリーズは語れないのだ。

日本初のスタントマン

中島春雄は1929年1月1日、山形県酒田市で肉屋を営む両親の間に、五人兄弟の三男として生まれた。水泳と素潜りが得意だったため、後年のゴジラ役でその能力が生かされることになる。

1943年、14歳で横須賀の海軍航空技術廠の養成所入り。いわゆる予科錬としてカタパルト担当へ配属された。この時鍛えられた経験が、過酷を極めるゴジラスーツアクターの体力の基礎となった。

実家の手伝いや運転手などを経て、1950年東宝に専属俳優として入社。邦画全盛の時世で、日本初の身体に火をつけてのファイヤースタントを演じる。その当時、当然ながら日本にはスタントマンなんて職業はなく、「吹き替え」と呼ばれていたらしい。

この時期、数々の吹き替えをこなす。

ハードだ。もうこの時点で体を張っているという匂いがプンプンしている。

 ゴジラ役への抜擢

そんな中島春雄に日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』のスーツアクターのオファーが舞い込む。ぬいぐるみ(スーツ)の中に人が入って演じるという日本初の「ぬいぐるみ怪獣」。

特撮監督の円谷英二から、「お前が演じてくれれば3ケ月でできる」と口説かれたという。

それまでの怪獣は人形アニメを用いた表現しかなく、制作側も「ぬいぐるみ」を使うと言われても、全然イメージが湧かなかったそうだ。なにしろ初めての試みだから、当然だろう。

さらに困難を極めたのが、スーツに入っての演技だった。最初に完成したスーツは、特殊プラスチックを素材として造形されたため、重量が150kg近くもあるという代物だった。当然、一度転ぼうものなら、自力では立ち上がれない。

先輩俳優の手塚勝巳と共にスーツを着て歩行テストしたところ、中島春雄は何とか10メートル歩けたが手塚勝巳は3メートル歩くのがやっとだった。

スーツの中は自分の汗が充満し、とても臭くてたまらなかったらしい。

今では信じられないが、草創期ならではの話である。こんな劣悪なスーツに入って演技できたのも、「軍隊で鍛えられたおかげ」だったそうだ。

 一番の悩みは「どんな動きをすればリアルに見えるか」。円谷英二から『キング・コング』を見せてはもらったもののイメージがつかめず、合間を縫って上野動物園でひたすら動物を観察した。その結果、象や熊の動きからヒントを得るところが大きかった。

そんな苦労のかいあって、「脇を開かずにつま先を蹴り上げて、足の裏を見せないよう歩く」という重厚感みなぎる「中島流」ゴジラが確立された。第1作の成功は、中島春雄の試行錯誤の末に生まれたものだった。

ミスター・ゴジラ

その後も、1972年の『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』まで、主にゴジラスーツアクターとして一線で活躍した。晩年になると、スーツの中に人が入っているという感覚はもはやなく、ごく自然にゴジラになり切っているほどの円熟ぶりだった。

ゴジラ以外にも、ラドンやバラゴン、ガイラなどでも彼の演技が生かされている。また、TVでは円谷英二の要請で『ウルトラQ』に参加。続く『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』にも出演している。

新しいゴジラが造形される際は、必ず試着して動きやすいよう改良していた。1作目のスーツに入った経験を後々まで生かし、そのノウハウを新造形のゴジラにも蓄積していたのだ。今のゴジラスーツには、先駆者である中島春雄の経験が生かされていることを忘れてはいけない。

彼のゴジラ俳優としての知名度は世界的であり、海外では愛称「ミスター・ゴジラ」と絶賛されている。近年は講演活動に積極的で、海外で開催されるイベントへの講演オファーがひっきりなしだった。そのオファーの人気ぶりは、講演料を貯めて家を建てたと言うエピソードでもうかがい知れる。それほど、世界中のゴジラファンからリスペクトされる存在だったのだ。

そのキャリアを評価したハリウッドから、キングコング役のオファーが来たこともあったという。ギャラも破格で、世界進出のまたとないチャンスだった。本人もやる気満々だったが、円谷英二の「何を言ってるんだ、もう次回作が待ってるんだぞ」という一言でしぶしぶ断念した。「ミスター・ゴジラ」のハリウッド進出を蹴るとは、特撮の神様も野暮なことをしたもんだと思う。

最後に、ドキュメンタリーで「ミスター・ゴジラ中島春雄自身が語ったコメントをもって締めくくりにしたい。

「最後まで僕のゴジラっていうのは、フイルムに残っていますから。記録に残っているから、僕にとってはありがたいと思う」

 

【感想】『ゴジラ』(1954)をあえて反戦映画として鑑賞した日

ここでいう『ゴジラ』は、『シン・ゴジラ』ではないし、松井秀喜のことでもない。

1954年公開の記念すべきゴジラシリーズ第1作のことだ。

なぜ今になって1954年版『ゴジラ』(以下、ゴジラ』と表記)の感想を書こうと思い立ったのか?

 これには、俺なりの理由がある。

東京大空襲に広島・長崎への原爆投下など太平洋戦争末期に、数あまたの生命が失われて72年。

燃えさかる灼熱の炎、それはまさに地獄の業火だ。

その地獄の業火になすすべを知らず、逃げ惑い命を落とす名もなき善良な市民たち。

生き延びた人々も、ある人はその時の惨劇に心をさいなまれ、またある人は放射性物質に侵されて命をむしばまれていく。

こんなことがあっていいのか。

世に戦争がある限り、世界のどこかで同じような悲劇が繰り返される。

それゆえ、戦争の悲劇を記憶にとどめなければという使命感が俺を突き動かしたのかも知れない。

しかし、小・中・高校時代に学校で鑑賞させられた反戦映画が俺の心の中にトラウマとして残っている。

だから、世にいう反戦映画と向かい合ってみようという勇気がないのだ、恥ずかしながら。

しかし、ある時思い立った。『ゴジラ』があるではないか?

私は見た! 確かにジュラ紀の生物だ! 

ストーリーはよく知られているので、ここではあえて省略する。

ゴジラ』は、人それぞれの見方、感じ方で違ってくる。

それだけ、この映画には様々な側面があるということだ。

  • 本格的特撮映画
  • 反戦反核映画
  • 娯楽映画  などなど・・・

「決して反戦反核だけを前面に押し出されているわけではない」と言う意見もあるが、俺はあえて反戦映画として見ることにした。

破壊の権化として畏怖されることの多いゴジラ

以前は破壊の限りを尽くす大怪獣としてゴジラを見ていた俺だが、年齢を重ねるにつれてその表情や鳴き声、動きそのものに悲しみを感じるようになってきた。 

これは監督の本多猪四郎特技監督円谷英二をはじめ撮影陣の功績も大きいが、スーツアクターで熱演した中島春雄の奮闘も忘れてはならない。

それにしても、見ていて胸をかきむしられる思いだったのが、モブキャラの母子。

ゴジラの破壊活動に逃げ惑い、最期を覚悟した母親は幼い娘を抱きしめて「もうすぐお父さまのところへ行くのよ!」。

しかし、娘は生き延びて、冷たくなった母親の亡骸を前に泣きじゃくる。

今でも強烈に記憶に焼き付けられているこのシーンこそ、俺に今回の記事を書かせた原動力だろう。

ほかにも「また疎開かぁ」、「せっかく長崎の原爆から命拾いした大切な体なんだもん」 など終戦から間もない製作時期をしのばせるセリフが随所に現れる。

終戦から10年、戦争の爪痕はまだ生々しかったのだ。

僕の手でオキシジェン・デストロイヤーを使用するのは、今回1回限りだ!

そして、戦争と言えば科学である。

科学の発展はすなわち戦争と共にある、と言っても過言ではないかも知れない。

ここに自らが偶然発見した化学物質の威力に戦慄し、苦悩する一人の男がいた。

男の名は芹沢大助。

将来を嘱望された科学者でありながら、戦争で負傷して研究に没頭する日々を送っていた。

その芹沢博士が開発した化学物質こそオキシジェン・デストロイヤーだった。

水中の酸素を破壊し、すべての生物を一瞬のうちに死滅させ、完全に液化してしまう恐るべき薬剤なのだ。

これを軍事利用で大量殺戮に使われることを恐れた芹沢は、平和利用に役立てるためオキシジェン・デストロイヤーの研究成果を公にしなかった。

しかし、周囲の熱意あふれる説得とテレビで放送された「平和への祈り」の歌声にうたれた芹沢は翻意、対ゴジラ兵器としてたった一度限りの使用を決断する。

これは、自らの命とともに研究成果を永遠に封印することを意味していたのだ。

この芹沢の科学者ゆえ苦悩する描写が素晴らしい。

先日、ナパーム弾を開発したある科学者がテレビで紹介されていたが、まさに芹沢と好対照のスタンスだった。国を愛するがゆえに、大量の犠牲が出ることも顧みず、アメリカ軍に進んで協力した姿は人間としての倫理観から著しく逸脱していた。

そして、大量殺戮兵器として東京大空襲朝鮮戦争ベトナム戦争でナパーム弾は著しい効果を見せ、多くの人民が犠牲となった。それでもその科学者は、「必要とあればもう一度同じことをするだろう」と言ってのけた。

対して、芹沢は自らの命を犠牲にすることで、オキシジェン・デストロイヤーの軍事利用を阻止したのだ。

芹沢を翻意させた「平和への祈り」、作曲は伊福部昭。本作の主題曲があまりにも有名だが、この「平和への祈り」がまた素晴らしい。桐朋学園(現:桐朋学園大学)の女子高校生2,000名余りの斉唱するメロディーとその姿は、聞き手の心を打つ。本作のクロージングにも流れたこの歌に、俺は不覚にも目頭が熱くなるのを覚えた。

そういえば、作曲者の伊福部昭は戦時中は戦時科学研究員として勤務していた。そのため、無防備放射線を浴びざるを得なかったという経験を持つ身だった。同じく研究員だった兄も、放射線障害で亡くなったと伝えられている。

その忌むべき経験が、『ゴジラ』の音楽を手掛けるきっかけとなった。伊福部昭もまた、戦争の被害者の一人だったのだ。

あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない

巡視船から東京湾海底に降り、ゴジラの足元でオキシジェン・デストロイヤーの装置を作動させる芹沢。BGMで流れる「海底下のゴジラ」もなかなか感情を揺さぶる名曲だ。

ゴジラがもだえ苦しむ姿に成功を確認した芹沢は命綱と空気管を切断し、オキシジェン・デストロイヤーの秘密を明かさぬままゴジラの道連れとなり消えていく。

ラストでゴジラが断末魔を残し、泡になって消えるシーンはゴジラへの同情が多く寄せられたと伝えられている。観客や出演者、スタッフからも「ゴジラがかわいそうだ」という声が圧倒的だったという。あれほどの破壊と殺戮を引き起こしたゴジラでありながら、シンパシーを感じさせる存在となっていたのだ。

核兵器という人類の兵器によって生み出され、人間の都合で海の藻屑と消える姿は何とも切ない。これほど人類の身勝手さを痛烈に表現したものはないだろう。戦争とは、そういった人類の身勝手さ、愚かさが引き起こす負の遺伝子なのだ。その負の遺伝子を断ち切ることは、もはや不可能に近いだろう。

それにしても、ゴジラは作中の言葉通り「最後の一匹」ではなかった。しかし、これほどの高いメッセージ性を帯びていたのはこの「最後の一匹」だったのかも知れない。