不惑にして惑う男の日記

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門田博光・不惑の大砲(その3) ホームランへのこだわりはアキレス腱断裂から?

元は打って守って走れる選手だった

このブログも、だんだん「門田博光伝」の様相を呈してきた。

それだけ、俺に与えたインパクトが大きかったのか?

今どき、ここまでパワフルなバッティングにこだわる選手はおらんからなあ。

今の連中はなんだかスマート過ぎていかん。

やはり、門田博光ばりのこだわりとフルスイングにかける気概が欲しいものだ。

おっと、愚痴ばかり書いてても始まらん。

ホームランにこだわり、走れない打者というイメージが強かった門田博光だが、実はプロ入り当初はこんな選手だった。

1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目の1971年にレギュラー定着。

門田博光 - Wikipedia

意外だった。

ほとんど守備につく機会がなく、ダイアモンドを1周する姿も覚束ないから本当に意外だった。

アキレス腱断裂後のDHとしてのイメージの強い門田であるが、それ以前は右翼手としての守備も相当なレベルにあった。 

門田博光 - Wikipedia

しかし、実は外野手としても素晴らしい守備能力を持っていた。 それは、以下の引用で明らかになる。

「(他の外野手からはフライが飛ぶとすぐに『広瀬さん!』と声が掛かったが)彼(門田)は守備範囲も決して狭くなく、右中間寄りのフライもさばき、大声で叫ぶ声を聞いた記憶はほとんどない」「グラブを柔らかく使いこなした捕球も上手かったが、肩が強くてしばしばホームで相手走者を刺した」「打撃と違ってしゃにむに速い球を返すのではなく、無駄な動きを抑えて素早く正確にワンバウンドの送球をしていた」

門田博光 - Wikipedia

上記の「広瀬さん」とは、「チョロ」の異名で親しまれた広瀬叔功のことである。通算596盗塁を記録した球界きっての快速選手だ。センターとしても屈指の守備能力を見せていた彼の目から見ても、若き日の門田博光の守備は秀でていた。

 シーズン2桁補殺を5度(1971-73,75,77年)記録している

門田博光 - Wikipedia

 補殺とはアウトが成立するように送球を行ったり、打球や送球の方向や速度を変えるなどしてそのアウト成立をサポートするプレー、あるいはその野手に記録される守備記録を指すしている。

つまり、この場合は内野への好返球でランナーをアウトに仕留めたという記録なのだ。

この記録は、門田博光が正確な送球と強肩の持ち主だったことを示しているわけだ。

また、広瀬叔功の証言から見ても守備範囲は相当のものがあり、これは彼が俊足だったという証明になる。

若き門田博光は打って守って走れる選手だったのである。

アキレス腱断裂!

それほどの選手がなぜ走れなくなったのか?

アキレス腱を断裂してしまったためだ。

 1979年2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂。ほぼ1シーズンを棒に振る

門田博光 - Wikipedia

 高知県大方キャンプでのことだった。

グラウンドでジョギングしていた最中、「プチッ」という異様な音とともに激痛にさいなまれ、その場から動けなくなった。

当時、南海の4番打者に座っていた彼が激痛で悶絶しそうだというのに、当時の南海は担架すら用意されていなかった。

運び出されるために用意されたのが戸板というのが情けなさ過ぎて、二の句が継げない。

理由は経費節減。

裏を返せば、当時の南海はそれほど財政逼迫していたという証明である。

それにしても、4番打者がそのあおりを食うというのが辛い。

病院で「アキレス腱断裂」を宣告された門田博光。つまり、これは「野球選手としてもうやっていけない」と言われたようなものだった。

しかし、門田博光はベッドに病院のベッドに横たわりながら決意する。

「絶対に、再びグラウンドに立つんや!」と。

「自分の足で地面を踏みしめて立つ喜びが分かりますか」

 というわけで、プレーヤー門田博光の再起に向けての闘いが始まった。

と書けば簡単だが、リハビリは辛く苦しいものである。

絶望に打ちのめされることも多かったのではないか?

しかし、彼は

「これは、神様が休む時間と考える時間を与えてくれたんや」と言う発想で乗り越えた。

門田博光はギプスが取れた時をこう回想する。

「自分の足で地面を踏みしめて立つという喜びが分かりますか?私はこの喜びを一生忘れませんよ」と。

ガンダム大地に立つ!」ならぬ「門田地面に立つ!」。

これは彼がプレーヤーとして生まれ変わる第一歩だった。

「足に負担を掛けんようにするにはホームラン打つのが一番や」

 不死鳥のごとく、プレーヤーとして再起を果たした門田博光

同シーズン9月には、代打で戦線復帰。

9月27日の対日本ハム戦で、カムバック後初となるアーチ(3ラン)を放っている。

翌1980年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」[4]と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌1981年には44本塁打で初の本塁打王に輝いた。

門田博光 - Wikipedia

もともとフルスイングが身上の門田博光だったが、復帰以降はホームランバッターとして活路を見出していく。

きっかけは、入院中に聞いた担当医の一言だったようである。

「こうなったら、走らんでも済むのを打てばいいじゃないですか」

この担当医は野球について素人だったようだが、その一言が見事に染み渡った。

「そうか、足に負担掛けんためにはホームラン打てば一番ええわな」

かくして、門田博光はホームランバッターとして生まれ変わった。

右足を大きく上げる一本足打法で、体がねじ切れんばかりの迫力満点のフルスイング。

スラッガーとしての生き方を極めていく中で、独自の練習法を編み出し、「不惑の大砲」への道をまっしぐらに突き進んでいくのである。