不惑にして惑う男の日記

四十にして惑う男が書く様々なネタ

永射保・必殺左殺し伝説

8月である。

汗がしたたり落ちる猛暑もキツいが、また1つ年を取るという現実に愕然とする。

8月は俺の誕生月なのだ。

不惑真っただ中の俺には、誕生日などこれっぽっちも感傷はない。

あるのは、「無駄に年を重ねた」ということへの苦い思いだけだ。

そんなたわごとはさておき、今回の本題に入る。

パ・リーグの猛者を手玉に取った男

 6月24日、一人の元プロ野球選手が天国に旅立った。

男の名は永射保

彼こそは、球界屈指の左のワンポイントリリーフである。

どんな名選手にもひけをとらない異彩と存在感を発揮した「必殺の左殺し」だ。

この訃報を知り、俺がどれほどショックを受けたことか。

そこで、追悼の意味を込めて、今回ブログを書くことにした。

彼の全盛期は西武ライオンズ時代。

当時、パ・リーグには左の猛者が綺羅星のごとくならんでいた。

主なところでも、

といった具合になかなか豪華な顔ぶれである。

並みのピッチャーならビビッてしまいそうな猛者どもを平然と仕留めてのけたのが

今回の主人公・永射保である。

 西武時代は、特にピンチで相手主軸を一人抑えて流れを引き戻すことも多く「史上最強のワンポイント」との呼び声もある。

出典:永射保 - Wikipedia

と言われるほど要所での起用が多く、しかも見事に結果を出していた。

どれほど相手にとって嫌な存在だったか、「世界の盗塁王福本豊の言葉を借りよう。

 顔を見るのもイヤだった。永射にはずっと苦しめられた。(左打者の)背中からボールが来る。そんな球の軌道に、自分のスイングをさせてもらえなかった。空振りか、やっとバットに当ててもショートゴロ。いろいろ工夫はしたけど、どうやって打てばいいのか、最後まで分からなかった。

出典:福本豊氏、「左キラー」永射さんを悼む…「背中から球が来る」 : スポーツ報知

そう、背中から曲がってくるカーブこそが彼の武器だった。このカーブに猛者たちは苦しめられたのだ。

パ・リーグばかりではない。

日本シリーズで対戦したセ・リーグのバッターも永射の餌食となった。

1983年の日本シリーズでは当時ジャイアンツの最強の左打者だった篠塚利夫がチャンスの度にワンポイント登板の永射と対戦、4打席で3三振(1四球)に打ち取られ、永射はシリーズの流れを変える働きを示している。篠塚は左投手を苦にしない巧打者だったが、永射は打ちあぐねてしまった。出典:永射保 - Wikipedia

「1983年の日本シリーズ」とは、逆転に次ぐ逆転で「名勝負」の誉れ高い西武vs巨人戦である。

1980年代のプロ野球人気の頂点となった熱戦だった。

その大舞台で、天才・篠塚利夫(和典)ですら翻弄されたのだ。

左殺し永射保のチームへの貢献度は相当なものだった。

外国人選手を翻弄した男

彼のピッチングの餌食となった事で有名なのが、レロン・リートニー・ソレイタの2人である。

誤解のないように言っておくが、2人とも当時のパ・リーグで他チームの脅威となった強打者である。

念のため、2人の日本での記録を簡単に書いておく。

  1315試合出場 4934打数1579安打 283本塁打912打点 打率.320 

    510試合出場 1786打数479安打 155本塁打371打点 打率.268

2人ともホームラン、打点タイトルを獲得したほどのバッターである。

加えて、レロン・リーは通算打率でも分かるように、アベレージも期待できる頼りになる存在だったのだ。

しかし、このリーグ屈指の2人が永射保の前では全く歯が立たなかった。

永射保との対戦成績に絞ると、次のようになる。

2人がどれほど永射を苦手としたかというエピソードが伝わっている。

レロン・リーは、永射を打てないあまり、左打者でありながら右打席に入ったことは有名。また、永射の500試合登板記念パーティーにゲストとして登場し、「彼のおかげで年俸がずいぶん低く抑えられたよ」と冗談とも本音ともとれるスピーチで座を沸かせた。

トニー・ソレイタは永射がマウンドに上がると涙目になったという(永射談)。また、彼の連続ホームラン記録がかかっていた試合で、記録をストップさせたのが当の永射だった。ソレイタ日本ハムから見限られたのは、一説には永射を打てなかったことが大きかったらしい。

ついでと言っては何だが、不惑の大砲門田博光も永射を苦手とした1人だ。

永射が登板した時に門田に代打が登場、それで「ああ、これで門田さんはオレを一生打てないな」と感じたらしい。

自衛隊に入隊した男

永射保伝説の一つに、「自衛隊へ入った」というエピソードがある。

いくら何でもと思ったが、どうやら事実らしい。 

この背景には、当時在籍していた太平洋クラブ・クラウンライター(いずれも現・埼玉西武)の財政事情がある。

球団の苦しい財政事情から選手たちの待遇も恵まれず、アルバイトで生計の足しにする選手が大勢いたと伝えられている。

実際、フランチャイズ平和台球場で焼き鳥屋を開いていたという選手もいるほどだ。

 永射保もその例外ではなかった。

彼が選んだアルバイトの一つが、事もあろうに「自衛隊」だった。

その理由は「給料もなかなかいいし、トレーニングにもなるから」だったそうだ。

身分を隠して入隊し、結局は上官に「実は自分はプロ野球選手だ」と告白したらしい。

その上官からは「かなり基礎体力があるとは思っていた。さすがプロ野球で鍛えただけのことはある」と褒められたそうだ。

今ならそんなことは考えられない。

 やはり、永射保はただものではない。

 

あの名曲とあの名作漫画のモデルになった男

外国人選手を翻弄し、自衛隊に入るなど異彩を放った永射保

その人生に強烈な輝きを与えているのが、ピンクレディー「サウスポー」と水島新司野球狂の詩水原勇気のモデルになったという事実だろう。

「サウスポー」のモデルになったいきさつは、下記の通りだ。

歌のモデルとなったのは当時クラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に所属していた永射保であり、振り付けの投球フォームがアンダースロー気味なのはそのためである。阿久は前年1977年のオールスター第2戦の4回表に読売ジャイアンツ王貞治を大きなカーブで空振り三振に仕留めた永射の投球に感銘を受け、この歌詞を書いたという(「魔球はハリケーン」は、他ならぬ王を仕留めたカーブのことである)[1]

出典:サウスポー (ピンク・レディーの曲) - Wikipedia

そんでもって、曲は大ヒット。俺もこの曲は知っているが、まさかモデルが永射保だとは知らなかった。

ピンクレディーの武道館コンサートでも「一緒に踊って欲しい」というオファーまで舞い込むほどだった(でも、断ったらしい)。

これだけでも十分凄いが、さらに凄いのが「野球狂の詩」でもモデルになったことだ。

水島新司オープン戦から永射を取材し、投球フォームまで研究したとのこと。でも、男では絵にならないから、女性プロ野球選手という設定に置き換えたらしい。

水島先生は知り合いのプロ野球選手に構想を打ち明けたら、ことごとく相手にされなかった。唯一相談に乗ってくれたのがノムさん。「その投手独自のボールがあれば、ワンポイントであれば通用するかも」というわけで、ドリームボール誕生と相成ったのだ。

 

こんな強力なエピソードがあれば、トークのネタでも困ることはないだろう。

敬遠球をホームランにされた男

 

そんな数々のエピソードを持つ永射保だが、実は最も不名誉な記録の持ち主でもある。

敬遠球をホームランにされた唯一の人物なのだ。

 1981年7月19日の平和台野球場日本ハムの柏原純一に敬遠球を本塁打にされた。これは日本プロ野球史上唯一の記録である。

出典:永射保 - Wikipedia

次打者がカモのトニー・ソレイタだったことで敬遠策に出たわけである。そんなことは百も承知の柏原、なんと大根斬りでスタンドに叩き込んでしまったのだ。

これにはさすがの永射もガックリ 。

この柏原が阪神打撃コーチとして指導した新庄剛志も、敬遠球をサヨナラヒットしている。師弟ともに悪球打ちだったわけだ。

ついでながら、この柏原は水島新司あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルの一人となった男である。水島新司南海ホークスの合宿を訪れた際、ボサボサ髪の男が一升瓶を片手に部屋に寝転がっていた。このボサボサ髪の男を見て、水島先生「これは新連載の漫画の主人公にいける!」とひらめいたらしい。この男こそ柏原だった。

敬遠球を打たれた永射は水原勇気のモデルで、打った柏原が景浦安武のモデルというのが何とも因縁を感じさせる。

最後に

以上、永射保伝説について延々と書いてきた。

本人にとって不名誉な敬遠球ホームランのエピソードで締めくくるというのは、とても失礼な話だろう。

本来なら、1982年「西宮決戦」での先発エピソードなども書くべきだったかも知れない。

しかし、ピンチで「背中から来る」カーブで数々の猛者をきりきり舞いさせたサウスポーの伝説は色褪せることはないだろう。

永射保、彼こそはプロ野球屈指の名バイプレーヤーだ。

この言葉をもって、故人への追悼としたい。