【感想】『ゴジラ』(1954)をあえて反戦映画として鑑賞した日
ここでいう『ゴジラ』は、『シン・ゴジラ』ではないし、松井秀喜のことでもない。
1954年公開の記念すべきゴジラシリーズ第1作のことだ。
なぜ今になって1954年版『ゴジラ』(以下、『ゴジラ』と表記)の感想を書こうと思い立ったのか?
これには、俺なりの理由がある。
東京大空襲に広島・長崎への原爆投下など太平洋戦争末期に、数あまたの生命が失われて72年。
燃えさかる灼熱の炎、それはまさに地獄の業火だ。
その地獄の業火になすすべを知らず、逃げ惑い命を落とす名もなき善良な市民たち。
生き延びた人々も、ある人はその時の惨劇に心をさいなまれ、またある人は放射性物質に侵されて命をむしばまれていく。
こんなことがあっていいのか。
世に戦争がある限り、世界のどこかで同じような悲劇が繰り返される。
それゆえ、戦争の悲劇を記憶にとどめなければという使命感が俺を突き動かしたのかも知れない。
しかし、小・中・高校時代に学校で鑑賞させられた反戦映画が俺の心の中にトラウマとして残っている。
だから、世にいう反戦映画と向かい合ってみようという勇気がないのだ、恥ずかしながら。
しかし、ある時思い立った。『ゴジラ』があるではないか?
私は見た! 確かにジュラ紀の生物だ!
ストーリーはよく知られているので、ここではあえて省略する。
『ゴジラ』は、人それぞれの見方、感じ方で違ってくる。
それだけ、この映画には様々な側面があるということだ。
「決して反戦・反核だけを前面に押し出されているわけではない」と言う意見もあるが、俺はあえて反戦映画として見ることにした。
破壊の権化として畏怖されることの多いゴジラ。
以前は破壊の限りを尽くす大怪獣としてゴジラを見ていた俺だが、年齢を重ねるにつれてその表情や鳴き声、動きそのものに悲しみを感じるようになってきた。
これは監督の本多猪四郎や特技監督の円谷英二をはじめ撮影陣の功績も大きいが、スーツアクターで熱演した中島春雄の奮闘も忘れてはならない。
それにしても、見ていて胸をかきむしられる思いだったのが、モブキャラの母子。
ゴジラの破壊活動に逃げ惑い、最期を覚悟した母親は幼い娘を抱きしめて「もうすぐお父さまのところへ行くのよ!」。
しかし、娘は生き延びて、冷たくなった母親の亡骸を前に泣きじゃくる。
今でも強烈に記憶に焼き付けられているこのシーンこそ、俺に今回の記事を書かせた原動力だろう。
ほかにも「また疎開かぁ」、「せっかく長崎の原爆から命拾いした大切な体なんだもん」 など終戦から間もない製作時期をしのばせるセリフが随所に現れる。
終戦から10年、戦争の爪痕はまだ生々しかったのだ。
僕の手でオキシジェン・デストロイヤーを使用するのは、今回1回限りだ!
そして、戦争と言えば科学である。
科学の発展はすなわち戦争と共にある、と言っても過言ではないかも知れない。
ここに自らが偶然発見した化学物質の威力に戦慄し、苦悩する一人の男がいた。
男の名は芹沢大助。
将来を嘱望された科学者でありながら、戦争で負傷して研究に没頭する日々を送っていた。
その芹沢博士が開発した化学物質こそオキシジェン・デストロイヤーだった。
水中の酸素を破壊し、すべての生物を一瞬のうちに死滅させ、完全に液化してしまう恐るべき薬剤なのだ。
これを軍事利用で大量殺戮に使われることを恐れた芹沢は、平和利用に役立てるためオキシジェン・デストロイヤーの研究成果を公にしなかった。
しかし、周囲の熱意あふれる説得とテレビで放送された「平和への祈り」の歌声にうたれた芹沢は翻意、対ゴジラ兵器としてたった一度限りの使用を決断する。
これは、自らの命とともに研究成果を永遠に封印することを意味していたのだ。
この芹沢の科学者ゆえ苦悩する描写が素晴らしい。
先日、ナパーム弾を開発したある科学者がテレビで紹介されていたが、まさに芹沢と好対照のスタンスだった。国を愛するがゆえに、大量の犠牲が出ることも顧みず、アメリカ軍に進んで協力した姿は人間としての倫理観から著しく逸脱していた。
そして、大量殺戮兵器として東京大空襲や朝鮮戦争、ベトナム戦争でナパーム弾は著しい効果を見せ、多くの人民が犠牲となった。それでもその科学者は、「必要とあればもう一度同じことをするだろう」と言ってのけた。
対して、芹沢は自らの命を犠牲にすることで、オキシジェン・デストロイヤーの軍事利用を阻止したのだ。
芹沢を翻意させた「平和への祈り」、作曲は伊福部昭。本作の主題曲があまりにも有名だが、この「平和への祈り」がまた素晴らしい。桐朋学園(現:桐朋学園大学)の女子高校生2,000名余りの斉唱するメロディーとその姿は、聞き手の心を打つ。本作のクロージングにも流れたこの歌に、俺は不覚にも目頭が熱くなるのを覚えた。
そういえば、作曲者の伊福部昭は戦時中は戦時科学研究員として勤務していた。そのため、無防備で放射線を浴びざるを得なかったという経験を持つ身だった。同じく研究員だった兄も、放射線障害で亡くなったと伝えられている。
その忌むべき経験が、『ゴジラ』の音楽を手掛けるきっかけとなった。伊福部昭もまた、戦争の被害者の一人だったのだ。
あのゴジラが、最後の一匹だとは思えない
巡視船から東京湾海底に降り、ゴジラの足元でオキシジェン・デストロイヤーの装置を作動させる芹沢。BGMで流れる「海底下のゴジラ」もなかなか感情を揺さぶる名曲だ。
ゴジラがもだえ苦しむ姿に成功を確認した芹沢は命綱と空気管を切断し、オキシジェン・デストロイヤーの秘密を明かさぬままゴジラの道連れとなり消えていく。
ラストでゴジラが断末魔を残し、泡になって消えるシーンはゴジラへの同情が多く寄せられたと伝えられている。観客や出演者、スタッフからも「ゴジラがかわいそうだ」という声が圧倒的だったという。あれほどの破壊と殺戮を引き起こしたゴジラでありながら、シンパシーを感じさせる存在となっていたのだ。
核兵器という人類の兵器によって生み出され、人間の都合で海の藻屑と消える姿は何とも切ない。これほど人類の身勝手さを痛烈に表現したものはないだろう。戦争とは、そういった人類の身勝手さ、愚かさが引き起こす負の遺伝子なのだ。その負の遺伝子を断ち切ることは、もはや不可能に近いだろう。
それにしても、ゴジラは作中の言葉通り「最後の一匹」ではなかった。しかし、これほどの高いメッセージ性を帯びていたのはこの「最後の一匹」だったのかも知れない。